彫刻ラインナップ

1809 年(江戸時代後期)完成の、現在の瑞泉寺伽藍(がらん)で最も古い建物の一つです。京都東本願寺の御用(ごよう)彫刻師・前川三四郎から技術を教わった井波大工たちの作品があり、井波彫刻の起源を知る上での重要な資料となっています。
京都東本願寺の御用(ごよう) 彫刻師・前川三四郎の作。前川は再建中の瑞泉寺のために井波に滞在していましたが、1788年に本山が焼失したため帰京。後に京都で制作された彫刻は、船と陸路で運ばれて取り付けられました。明治期の火災では、この龍が水を吐き、火を吹き消したという逸話が残っています。
門には、井波大工による幾何学模様が随所に彫られています。人の手で幾何学模様を均一に彫り上げるのは非常に難しく、当時の職人の技術力の高さがうかがえます。また、出入り口の扉の玉杢(ぎょくもく)嵌板(かんばん)には大谷家の家紋である「抱き牡丹」が浮き彫りで施され、大変に豪華な仕上がりとなっています。
門内上部の蟇股(かえるまた)彫刻は 八仙人(はっせんにん)を表しています。八仙人とは中国の故事に登場する伝説上の人物たちで、不老不死の力を持つとされています。入口側の4体は井波(初代・岩倉理八)、本堂側の4体は京都の彫刻師(柴田吉之丞)の作品です。

1792年に再建された式台門は、扉の両側に菊の紋が刻まれ、皇室の要人や賓客が出入りする際に使用されます。皇室の勅使(ちょくし)が出入りすることから「勅使門(ちょくしもん)」とも呼ばれています。
扉の両脇にある「獅子(しし)子落(こお) とし」彫刻は、井波彫刻の祖である北村七左衛門(九代目・田村与八郎)の作で、日本の彫刻史においても傑作と言われています。親獅子が子獅子を千切(せんじん)の谷に突き落とし、這い上がる子獅子だけを育てるという逸話を表現しています。元々は「鯉の滝登り」と組み合わさる予定でした。
中央上部には「(ばく)」の蟇股(かえるまた)彫刻と、虹梁(こうりょう) には「松に鶴」の彫刻が取り付けられています。これらの彫刻も九代目・田村与八郎の作です。

1885年(明治18年)に再建された本堂は、全国屈指の大きさを誇ります。内部には、宗祖である親鸞聖人(しんらんしょうにん)の肖像や聖徳太子像などが安置されています。
木鼻(きばな)とは、社寺建築の柱から突き出た飾りのことで、時代や地域によって動物や植物、伝説上の生き物などさまざまなモチーフがあります。こちらは獅子型の木鼻で、二代目・岩倉理八の作。彼は京都東本願寺再建時に彫刻主任(制作するすべての彫刻を監督する立場)も務めた人物で、数多くいる井波彫刻師の中でも「名人」と呼ばれています。
桜と菊が明治時代(建設当時)のもので、昭和時代に松と牡丹が後付けされました。当時活躍していた流派が、それぞれ制作を担当しました。
瑞泉寺角力講(すもうこう)の尽力により、1965年(昭和30年)に井波彫刻協同組合へ発注されました。翌年までに計6個が制作され、取り付けられました。

聖徳太子を祀る瑞泉寺の太子堂は、1918年(大正7年)に完成しました。太子堂としては全国最大の規模を誇り、堂内外には井波彫刻師たちが競い合って彫った、繊細で豪華な彫刻が多数施されています。
京都東本願寺の彫刻群を制作した直後に作られた太子堂の唐狭間(からさま)は、本山と同じ図柄ですが、より立派な仕上がりとなっています。本堂と異なり、金箔が貼られていないのは、御本尊の聖徳太子が人間であり、極楽浄土を表現する必要がないためとも、井波彫刻師が鑿跡を魅せるためにあえて金箔を使わなかったとも言われています。
向拝(こうはい)の両側にある手挟(たばさ)みは、桐と鳳凰(ほうおう)、水波と龍などの文様を籠彫(かごぼ) りで繊細に表現しています。4つの手挟みは、井波彫刻の各流派が切磋琢磨して完成させた、史上最も優れた彫刻の一つです。
四隅に取り付けられた龍がにらみを利かせ、災いから建物を守っています。建物に向かって右前が十四代目・田村与八郎、左前が横山作太郎、右後ろが斉藤庄太郎、左後ろが二代目・岩倉理八の作です。
本堂の木鼻(きばな)と同じく二代目・岩倉理八の作。霊獣である(ばく)は、悪夢を食べ吉夢を運んでくれると言われています。